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| ■ESSAY :March 2000 | |
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高田先生の「気まぐれ更新日記」です。 |
| <それどころではない‥‥>Date: 2002.10.10 | |
イネは15才と1月半の生涯を私の目の前で終えて、昨日が初七日だった。 臆病なくせに人なつこくて周囲の人たちに愛されていた。テリトリーを守る気 持ちはあるらしく、知らない人が家に近づくと吠えて知らせてくれた。でも、入ってこられると怖くなって、内心の葛藤のためにくるくる回ってしまっていた。 だから「番犬」じゃなくて「呼び鈴犬」。 あまり言葉はわかっていないようだったけれども、イネ、マテ、ヨシ、オスワ リ、サンポくらいは覚えていた。家を訪ねてきた人がお愛想に「もう散歩は連れて行ってもらえたの?」なんて言おうものなら、その「散歩」を聞き取ってパタパタと歓びのステップを踏んだものだった。 いつもいつも私が玄関ドアを開けて出てくるのを待っていた。家の中の音に耳を澄ませていて、階段を下りる音を聞きつけてクンクンと鳴いていたりした。ドアを開けるとすでにオスワリして私を見上げているイネと目があったものだっ た。イネには私がすべてだった。散歩の途中のひとかけらのおやつが大好きだった。それはコロッケ、メンチカツ、肉まんや唐揚げだったりした。その時ばかりは私のことも眼中になくなり、視線はそれらに釘付けになっていた。散歩のあとは少しばかりの牛乳を一息に飲み干して満足げだった。 去年の夏に1回目の肺炎のあと、彼女は「呼び鈴犬」を引退した。家の前のスペースで来訪者を知らせる役目を終えて、家と塀の間の庭−人間が容易に入っていけない空間−を自分のリビングにして、そこで寝て暮らすことが多くなった。 ふかふかと草が生えた狭い空間でぐっすり眠るイネの姿はリタイアした人のようだった。イネは誰に言われたのでもなく自分で引退を決め、その頃から性格も壮年期とは大きく変わっていった。肺炎の治療のためには1日2回抗生物質を与えなければならなかった。それが命の薬とも思っていた私は確実に飲ませる事を最優先し、本に書いてあったように口を開かせ喉の奥に錠剤を押し込んで飲ませていた。次第に頑固になっていったイネは逆らうようになり、私を避けるようにな った。玄関先に知っている人が来るとしていた歓びのステップもいつしか踊らなくなり、ぼぉーっとして何事にも無関心になっていった。 そして2ヶ月前、2度目の肺炎で倒れて入院し、退院してからも去年のようには回復しなかった。老犬の体力を奪う猛暑を避けて、玄関のタタキにペットシーツを敷き詰めて病室にした。犬は毛皮を着込んでいるだけあって暑いのが苦手だ から、寝室のドアを開けっ放しにし、クーラーを効かせて廊下も玄関も26℃前後を保つようにした。食の細ったイネに食べさせようと缶詰をブレンドし、鰹節をトッピングしたりして目先を変えてみたりもした。夜中でも私の耳は起きていて、タタキで何か音がすると目が覚めて、見に行った。ちょうど新宿の銅版画展 が終わる日の朝に入院し、家での作業が始まる時期に始まったイネの闘病生活は、まるで私のスケジュールを知っているかのようだった。家で看病したり、時には病院に預けて息抜きをしたりしながらも、私が溜め込んでいたイラストの仕事を仕上げたのを見計らったように、再びイネは調子を崩す。自分で立ち上がる ことが出来なくなったのだ。また立てるようになることに望みは持っていたけれど、病院で私を見送るイネを見て胸が締め付けられるような気持ちになったのは、もしかして何かの予感があったのかもしれない。 それからは状態は悪くなる一方だった。若い獣医師に治療を諦めるかと訊かれた、その日からは生きること、老いること、死ぬことについて考え続けた。毎日イネを見舞い、だれかに電話して様子を話しては泣いた。お風呂に入り、食べて、お酒を飲んでは寝た。仕事はしなかった。それどころではなかったのだ。食べることも出来なくなったイネに、ここ数年は健康のためにやらなかったコロッケを持っていった。意識レベルが低下し、半分眠っているような感じだったけれども、その時、鼻の穴がヒクゥと動いて口が開いた。ほんの一口だけ食べたのを見て、嬉しくて、悲しくて泣いてしまった。見舞いに行っていた私がそろそろ帰ろうかと思った時、イネは急変した。その日、膝に抱えていたイネはしきりに顔をこちらに向けてくる仕草をみせた。口が何か言いたそうに動いて‥‥、そしていきなり首がカクンと倒れ、一気に危篤になった。ベテランの獣医師とスタッフが素早く動いて心肺蘇生を試みたが、自発呼吸は回復しなかった。 イネは皆に愛されていたから、ごく内輪の人には集まって貰って、お葬式をすることにした。いったん家に連れてかえって、イネが15年暮らした玄関先で蚊取り線香を焚きながら、イネの亡骸を抱いて葬儀社の人を待った。家々に囲まれたイネが見上げた空を見て涙が止まらなかった。 イネの命はもう助からないと知ってから、私は悲しむことを我慢したりしなかった。してやれなかったことを悔いたり、楽しかったことを思ったり、周囲の人 にはその時々の気持ちを隠すことをしなかった。この半月、仕事らしい仕事はせずにいた。考え続けていることの結論はない。はかったようなタイミングで倒れたイネ、そして私の気持ちを受け止めてくれた周囲の人に感謝している。イネは白い骨になって小さな壺に入ってしまい、思っていたよりもずっと小さかった頭骨の中の鶏卵よりも小さな脳に宿っていた"こころ"を忍んで、まだ不意に涙があふれ出す。けれども、初七日を終えて、そろそろ私も普段の生活に戻っていかなければならない時だろう。思い切り泣くことが出来たから、これからはイネとの楽しかった想い出と感謝を抱いて暮らしていけそうな気がしている。 とてもプライベートな事ですが、仕事を再開する為にはどうしても区切りが必 要だったので、このところの私にとっての重大事を書きました。イネのコーナーは近々更新します。 | |
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